続・おねがい J Storm

伊野尾慧くんのファンです。

どこまででも行ける切符

※「カラフト伯父さん」及び宮沢賢治銀河鉄道の夜」の内容詳細に触れてます。劇中のセリフ書き起こしはすべてニュアンスで。

すると鳥捕りが横からちらっとそれを見てあわてたように云いました。
「おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符だ。天上どこじゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想(げんそう)第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行ける筈(はず)でさあ、あなた方大したもんですね。」
「何だかわかりません。」ジョバンニが赤くなって答えながらそれを又(また)畳んでかくしに入れました。
銀河鉄道の夜宮沢賢治

「カラフト伯父さん」作中で引用されている宮沢賢治銀河鉄道の夜」。主人公ジョバンニは ”どこまでも行ける切符”を持っているのだけど(カムパネルラは持ってない)、その切符を、生きている限り未来はいかようにも変えられる、というような無限の可能性の比喩と捉えるならば、徹くんは数々の災いによって ”どこまででも行ける切符”を奪われ、いや、生き残った者の責務として手元に残ったであろうその切符を放棄してしまった悲しいこどもでした。

「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。」
 いきなり、カムパネルラが、思い切ったというように、少しどもりながら、急せきこんで云いいました。
 ジョバンニは、
(ああ、そうだ、ぼくのおっかさんは、あの遠い一つのちりのように見える橙だいだいいろの三角標のあたりにいらっしゃって、いまぼくのことを考えているんだった。)と思いながら、ぼんやりしてだまっていました。
「ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸さいわいになるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう。」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえているようでした。
「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの。」ジョバンニはびっくりして叫さけびました。
「ぼくわからない。けれども、誰たれだって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。」カムパネルラは、なにかほんとうに決心しているように見えました。
銀河鉄道の夜宮沢賢治

母・千鶴子さんは自分の死を目前に悟郎に「あなたに出会えて幸せだったわよ。」「だから徹にも幸せ、分けてあげてね。『ほんたうのしあわせ』教えてあげてね。」と電話で伝えます。

カラフト伯父さん(悟郎)は当時小学生だった徹くんにこう慰めの言葉をかけます。「お母さんは死んだんじゃない。『ほんたうのしあわせ』を探しに行ったんだ。今は分からないかもしれないけど、大きくなったらきっと分かる。」「道に咲く名もない花、石ころだってみんな何かの役に立つ。今の苦しみも悲しみもきっと何かの役に立つ。」「いつかお母さんの『ほんたうのさいわい』が見つかるはずだよ。見つけるまでサザンクロスみたいに徹をぴかぴか照らして、いつだって徹を守ってみせるから。」

独白シーン。「カラフト伯父さーーーん!『ほんたうのさいわい』はどこですかーーー」
荒れ狂う波の中でもがいてるかのように叫び続ける徹くん。

六場。「『ほんたうのさいわい』なんて、ほんたうにあるの?」と問う仁美に、悟郎は「私たちは『ほんたうのさいわい』はほど遠い。」(お腹の)子供たちのそのまた子供たちの子供たちくらいの世代にならないとたどり着けない、と答えます。



徹くんが求め続けた心の拠り所としての『ほんたうのさいわい』と、悟郎が指し示す社会的な『ほんたうの〜』は実のところ別物で、もっと言えば自分の運命を受け入れたんであろう母・千鶴子さんが言う『さいわい』にすら、それらとの相違を感じなくもなくて。正直、いろんな『本当の幸せ』を提示されるので観客としては咀嚼するのに少し手間がかかるのだけど、その分いろんな受け止め方が出来るし、宿題は持ち帰ってもらうけど押し付けがましい回答は用意しないというのは作演出の鄭 義信さんのメッセージであり意図なのかもしれません。
観劇後、わたしなりに『ほんたうのさいわい』についてずっと考えてたのだけど、徹くんに「歯が浮くわ」と嘲笑されてしまいそうな陳腐な言葉しか思いつかなくて、いまだに自分の中でフィットする解釈にたどり着けてないのですが、カムパネルラが言う『ほんとうにいいこと』、自分の中にある良心みたいなものは持ち続けたいな、とそんなふうに思ったり。悟郎や宮沢賢治が言わんとしている、それらを「分け合う」域にはまだいけない未熟者だけれど。


銀河鉄道の夜」に話を戻すと、ジョバンニと共に銀河を旅するカムパネルラは、川で溺れる同級生ザネリを助けるために亡くなってしまいます。お父さんが家に帰ってこないジョバンニをいつもからかういじめっ子ザネリの身代わりになることが、カムパネルラにとって『いいこと』だなんてなんとも納得いかないのですが、そこを踏まえて「カラフト伯父さん」を観ると、”どこまででも行ける切符”を持つジョバンニのように、無限の可能性に向かって人生を歩むはずだった徹くんは、震災によって誰かの犠牲の上に生かされた(本当はそんなことないのだけど)、ザネリでもあったんですよね。「カラフト伯父さん」はカムパネルラに助けられたあとの、罪悪感に苦しみ神を呪うザネリ中心の物語とも考えられなくはないかな。
ひとりの青年が希望であり呪縛でもあった言葉や過去の記憶から解放され、再生の一歩を踏み出すまでを描いた「カラフト伯父さん」は、”どこまででも行ける切符”を再び手に取るジョバンニとザネリの物語だったのでは。


「サザンクロスみたいに徹をぴかぴか照らして、いつだって徹を守ってみせるから。」
カラフト伯父さんのこの言葉は幻想でした。伯父さんの中の人はヒーローでも神様でもない、大いに忘れ、大いにお酒を飲むただの人間だった。別れた女房との間にできた息子に金の無心をしに来るだなんて、最低なマジックの種明かしだけれど、人間としての伯父さんを受け入れなければ、徹くんは先に進めなかったのだよね、きっと。それに、二人が東京へ戻る切符の代金は徹くんが工面したけれど、その交換に、10年間おそらく視界に入れることすら避けていた”どこまででも行ける切符”を徹くんのもとに戻してくれたのは伯父さんだったのだよな。そして徹くんの笑顔が見れて、よかったなあと思うの、やっぱり。



伊野尾くん、東京公演、お疲れさまでした。泣いちゃったんだってね。伊野尾くんはああ見えて情にもろかったり、なんならつられ泣きもするタイプだし(たぶん)、初日なんて感極まっちゃって泣いちゃうんじゃないかなあなんて想像してたんだけど、思いのほか晴れ晴れとした様子だったようで、男の子は大人になると泣かなくなるんだねえと少し寂しくも思ってたんですが、そりゃ、泣いちゃうよね。連日舞台をやったあと深夜にドラマ撮影をこなすハードスケジュールの中、コンディションにも苦労してそうだったし、何よりすごくすごく努力を重ねたあとが見えるお芝居だったから、そんなの、泣くよね。

そういえばある日の終演後、「こんなの好きになっちゃうよ」と、友達と話し込む女の子がいたのだけど、わたしも伊野尾くんのことがもっと好きになったし、伊野尾くんのこれからが楽しみでいま仕方ないです。それに、カラフトが始まってからというものの、これまでのJUMP界隈ではなかった、新しい熱と波をずっと感じてます。わたしが伊野尾くんファンだからかもしれないけど、熱の質が違う気がしてしょうがないんですよね。伊野尾くん、すごい。
あと個人的に、なにがなんでも入らなきゃいけない公演があることをカラフトで学びました(笑)。あ〜〜、、初座長公演の初日と楽日……もう二度とない瞬間を逃すわたしって愚かすぎる。「後悔後を絶たず」ということわざがこんなにもリアルに感じる日が来るとは…。

大阪公演はこれまたいろんな意味でプレッシャーがはんぱないと思うけど、公演ごとに越えるべき壁の高さを更新していったのは伊野尾くん本人だから、きっと大丈夫。思う存分、伊野尾くんが作り上げていった徹というキャラクターを演じ切ってくれたらいいなあと思います。